ピスコ峰(5752m)ワスカラン峰(6768m)スキー滑降

2001年7月
牧野総治郎

・ 小川さんと合流、ピスコへ

 パロン湖での高所順応を終え、ワラスのベタニアに戻ると、小川さんが元気いっぱいで待っていた。日程が遅れてうまく会えないのではないかとか、トレッキングで疲れてピスコに行く気力が残ってないのでは等と皆で心配していたが、まったくの杞憂であった。
逆に小川さんから元気を分けてもらい、翌7月6日からピスコめざして出発。メンバーは我々4人とガイドのリベラートとポーター二人。ピスコ登山口は3800mできれいな川の流れる緑のキャンプ場だった。忙しくパロン湖を往復するより、ここに1〜2泊して、BCまで空身で往復したりする方が高度順化には良いのではと思った。
BCまではロバが使える。ロバ使い(アリエロ)が知り合いとかで、ロバ代はなぜか請求されなかった。(ワスカランの時はロバ代とポーター代を両方払った。ロバが使える区間はポーターも空身で歩いているのだが…。)
緑豊かな谷をゆっくりと高度を上げて行くと背後には、ワスカランとチョピカルキが徐々に姿を現す。この区間が一番きれいだったなぁと、後でふりかえって思う。4600mのBCに到着し赤ワインで乾杯すると、思いのほか、まわってしまった。さらに40m程上にある小屋を訪れ、ビールを飲んだらフラフラになってしまった。

 7月7日 BCからC1へ。150m位登ってから50m位の下りがあり、消耗する。正面にピスコから続く雪原が見えてきた。雪原の末端は小さな氷河湖になっている。BCへはこの雪原を右に見て、左へトラバース気味に登って行く。4900mのBCにはまだ雪はなく、昔は氷河湖だったような窪地のヘリにテントを張る。昼食後、横山さんとアンデスの初滑りに行く。横山さんはBCから正面に見えている雪面を滑ったが、私は右手の氷河湖の上の雪面を滑った。5100mまでシールで登り、雪面の末端4890mまで滑ったが、初めてのスキーで、いろいろ手間取ってしまい、滑り終わったのは4時半。BCに戻るのに、左側のガラ場をトラバースしようとしたが、スラブ状の岩場が出てきて、トラバース出来ず、結局5000m位まで登り返す破目になる。そんな事でBCに戻ったのは5時40分位になってしまった。明日は2時起きの3時出発である。これでは疲れが取れずアタックに失敗するのではないかと不安になる。

・ ピスコアタック

 7月8日、まっ暗な中、3時半にC1を出発。最初はガレ場を登るので、ジョギングシューズを履いていく。15分程登って雪が出てきたので兼用靴に履き替える。スキーは担いで行く。スキーの重さ、兼用靴の歩きにくさが二重のハンデとなり、リベラートと他のメンバーに引き離される。5時半、5300mのコルに到着。あたりはうっすらと明るくなる。ここからは傾斜が緩くなるので、シール登高にする。緩斜面のシール登高で調子が出て、ようやく皆に追いつくが、ちょっと傾斜が急になると、スキーを雪面にたたきつけるように登らなければならず、うすい空気に消耗して、また差がついてしまう。リベラートと野村さん、小川さんの姿はしだいに小さくなり、もう追いつくのは無理だろう。横山さんと相前後しながらヨロヨロと登って行く。ペースを上げようとすると胃のあたりが痛くなる。高度の影響と登れなかったらどうしようというプレッシャーで悪循環になっているようだ。少しでも軽くしようとジョギングシューズを雪面にデポする。回収できなかったら大変なのであるが…。段々暖かくなり、徐々に調子が出てきた。ピスコの頂上直下の雪壁を3人が登っている。昨年は、ここは垂直に近い傾斜で雪も堅く、スキーはデポするしかないと聞いていたのだか、今年は傾斜もそれほどではなく、雪も柔らかい。スキーをはずして両手に持ち、テールを雪面に刺しながら、キックステップで登り切った。平らな頂上では、女性陣が、外国隊と一緒になってはしゃいでいる。初めての高山なのに、何と元気なのだろう。間もなく横山さんも到着し、握手を交わし、記念撮影。天気も良く、360度の展望だ。最終目標であるワスカランをはじめ、チョピカルキ、チャクララフ、アルテソンラフ、カラス、ワンドイ等6000m以上のピークに囲まれている。アルテソンラフの奥には、キタラフとアルパマヨも見える。登り易い上に、この大展望が得られるのが、ピスコの人気の理由であろう。
 ケーナを3〜4曲吹いてから待望の滑降に移る。頂上直下の急斜面は、右へ山回りターンで切り抜けた。横山さんは肩まで下りてからスキーを着ける。尾根の右側に、幅、傾斜、雪質とも適度な斜面をみつけ、滑り込む。大きなターンと大きな呼吸に気をつけながら滑る。意識して呼吸をしないと、酸欠になってしまうのだ。初めは、ちょっと調子の出なかった横山さんもきれいなシュプールを残しながら下りて来る。
 横山さんにとっては、二年越しの念願だった滑降だ。昨年は他のメンバーに遠慮してピスコではスキーを使わなかった由。左にトラバースして、デポしたシューズも無事回収。登高時は堅かった急斜面も雪が緩んでいるので難なく通過。あっさりコルに着き、女性陣を待つ。コルからC1まではうすいガスの中、クレバスを右に左によけながら慎重に滑る。あと30分位待っていれば、きれいに晴れ上がったのだが…。最後はガラ場を左に見て、C1の正面の急斜面を滑ってフィニッシュした。

・ ペルー最高峰ワスカランへ

 7月9日にワラスへ戻り、10日はペルーに来て、初めての休養日。しかしおみやげを物色したり、午後からは、食料の買出しに、メルカードに行ったり、あまり休めなかった。横山さんは下痢をして調子悪く、翌朝も回復しなければ出発を1日延期することにした。でも翌11日には、何とか大丈夫そうなので、予定通り、ワスカランBC目指して出発する。先に日本へ
帰る小川さんとはお別れである。

 ワスカランの登山口のムーショは3200mと標高はあまり高くない。ロバを5頭雇ってBCまで荷揚げをするので、我々も、ポーターもほとんど空身である。しかし、この行程も往復で2日分ポーター代を払う事になっており、どうもふに落ちない。
 BC(4200m)はあまり広々とした場所ではなく、斜面にひな壇状にキャンプサイトがある。その上は岩場になっており、野村さんと一緒に1時間程登って降りてくる。その時にはもうステーキとライスの夕食をリベラートとポーター達が用意していてくれた。まだ息が整っていないうちにかたいステーキとしんのあるライスを詰めこんだせいか、食後、お腹が痛くなってきた。夜中には激しい寒気に襲われる。以前、カラコルムでも消化不良から激しい下痢と熱発を被った事を思い出す。夜間、数回トイレに行き、少し、お腹は楽になったが、寒気とだるさはおさまらない。朝、皆に調子が悪い事を告げ、出発を見合わせる。昼までに回復すれば、カンポ・モレーノ(BCとC1の中間)まででも行動しようという事になったが、それも無理だった。ようやく夕方には少し楽になり、夕食はスープを2,3口、口にする事が出来た。

 翌13日、幸いにも体調は回復、ゆっくりとC1をめざす。BCから上は、西ゼンを思わせるような岩場が拡がり、その中央を氷河の融水が滝となって流れ落ちている。スキーを担いで降りてきた外国人とすれちがう。スロベニアの若者である。スキールートについてたずねてみる。詳しい事はわからなかったが、そんなに困難ではないという。こちらは雪のある所までポーターにスキーを運んでもらっているので、ちょっと引け目を感じる。
 4800mのカンポ・モレーノを過ぎると、4860m付近で氷河の末端に達する。スキーを受け取りシール登高する。傾斜は10〜15°くらいで、シールで登るのには絶好である。5185mのC1に余裕で到着。荷物を置いて5310mまでさらに登り、シールをはずして、ひと滑りした。横山さんはショートスキーでC1から下へ滑り、登り返してくる。兼用靴を脱いでテントに入ろうとするとビムラム底がはがれかけているのに気づき、びっくりした。プラスチックの本体とビムラムの間が、片方は、かかと側から、片方はつま先側から半分近く隙間が出来ているのである。6年前に購入した靴なので、心配はしていたが、まさかこんな事が起きるとは…。テーピングのテープでぐるぐる巻きにして補修する。アイゼンやスキーを着けていれば何とかなりそうだ。ただし、ビブラム面がほとんどテープで覆われてしまったため、そのままて行動するのは危険な状態だ。
 腹具合はすっかり回復し、日本から持ってきた鮎の甘露煮や、インスタントライスで夕食を摂り、ワインも少し飲んで眠りについた。

 14日は、北峰(6655m)と南方(6768m)の間のガルガンタ(喉)と呼ばれるコルの直下にあるC2(5900m)まで。行程は短いが、急なクレバス帯を抜けるところがあるらしい。クレバス帯直下までは、私はシールで行動。ツボ足組より快調に先行する。クレバス帯が近づき傾斜が増して来たところでやめておけばよかったのだが、いつもの癖で調子に乗り、ギリギリまでシールで行こう、あわよくば、クレバス帯をシールで抜けてみたいと深追いしてしまう。急で狭い斜面をキックターンを繰り返しすっかり消耗してから、あきらめてアイゼン登高に変え、スキーは細引きで引っ張る。しかし、今回は流れ止め紐を使わず、スキーブレーキを使っているため、これが雪面にひっかかり、とても登りづらい。45度位の急斜面に50cm位の幅でクレバスが口を開けている核心部に出た。リベラートにザイルで引っ張ってもらいながら思い切り足をひろげ、何とかクリアする。
 その上を50〜60m直上してから、少し左へ行ったところで傾斜は落ち、一息つく。あとはC2まで左にトラバース気味に上がって行くだけである。
 再びシール登高とするが、ここまでですっかり疲れ切ってしまい、皆より30分以上遅れてC2にたどり着く。C2は高さ5m、幅60m程のアイスフォールを背に、巨大なクレバスとの間の平坦地でテントは5〜6張りあった。背後のアイスフォールが崩れたら、ひとたまりもないが、まあ安定しているのであろう。
 3時を過ぎたのに、今日のアタックに出たパーティーはまだ誰も戻って来ていない。4時近くなって日本人のガイドと女性客の2人パーティーが降りてきた。ガイドは何と、1997年にカラコルムのガッシャーブルムTで一緒だった北村さんである。しばし思い出話に花が咲く。
 ここまで快調だった野村さんは、頭痛と吐き気を訴え、調子が悪い。夕食もほとんど口にせず横になる。

 15日、午前2時に起床するが、野村さんは回復せずとても動ける状態ではない。私も昨日の疲れが残っており、休みたい気分だ。横山さんも異論はなく、あっさりとアタックは明日に延期となる。今日,南峰に登れれば明日、北峰に行ける可能性もあったのだが、これで北峰は断念となった。横山さんと2人でその日に北峰を目指すという手もあったなと後で考えたが、後の祭りである。それに2人とも、両方登る体力は残っていなかっただろう。
 10時45分から、横山さんと2人でコルまでスキーで遊びに行く。アイスフォールの右側の斜面をひと登りすると、また同じようなクレバスとアイスフォールがあり、横山さんの話では、昨年は皆、ここにテントを張っていたという。その上は、傾斜のゆるい広大な雪原となっている。ガスがでてきたこともあり、どこがコルかわからない。南峰側の斜面を6040mまで登ってから帰った。途中細いクレバスを横断。私はスピードをつけて直角に飛び越えたがショートスキーの横山さんは慎重に手前で止まって大きく迂回していた。
 野村さんは相変わらずの状態であったが、「明日は這ってでも行く」と言う。野村さんが途中で引き返すことを考えて、明日はポーターのシクサンにも同行してもらう事にした。

 7月16日、1時起床、2時20分出発。
 プラトーまでの斜面にちょっと不安はあったが、テープぐるぐる巻きの靴だけでは歩けないし、アイゼンの脱着も面倒だったので、私は初めからシールで行動した。しかしこれが裏目に出て、硬くなった斜面で方向転換したときに転倒、滑落してしまった。30〜40mずり落ちただけで止まり、臀部を打ったぐらいでけがはなかったが、止まらずにクレバスに吸い込まれるのではと一瞬肝を冷やした。気がつくとストックが一本ない。ヘッドランプで周囲を照らしてみるが見当たらない。アイゼンに履き替え、あたりを探すが見つからない。
 ツボ足組は、先にプラトーに抜けてしまっている。そのうちリベラートが戻ってきてくれた。ストックは多分、クレバスに落ちてしまったのだろう。野村さんが1本ストックを持っていた事を思い出し、リベラートにテントまで見に行ってもらうが、テントのそばには無いと言う。それなら、持って登っているかもしれない。ザックのサイドにストックを差し込んでいたのを見たような記憶もある。
リベラートと一緒にプラトーまでアイゼンで登る。皆を1時間以上待たせてしまった。幸い、野村さんはストックを持っていたので借りることができた。
 ブラトーからは、またシールで歩き、傾斜がきつくなってきたところで、アイゼンに替える。次第に傾斜が増し、40度くらいとなる。踏み後があるので大丈夫だとは思うが、誰かが滑落したらザイルでつながっている全員が引きづり込まれるのではないかと思う。ようやく傾斜がゆるくなり、小さなクレバスをスノーブリッジで超える。この頃から明るくなり、北峰が茜色に染まる。左手下方には、この間、ピスコから見渡した山々が雲海から顔を出している。右手はるかかなたのコルディエラ、ネグロ山群にワスカランの陰が写っているのには驚いた。
 崩落した氷塔のかけらがデブリのようになっていて歩きにくい一帯を抜けると巨大なクレバスの下に出た。左に大きくトラバースして迂回する踏み後もあるが、かなり遠回りになる。クレバスの対岸は20m位の壁になっており、右上方から巨大なツララのようなスノーブリッジがぶらさがっている。このスノーブリッジを利用して突破するのが、メインルートのようだ。まず、リベラートがクレバスの中に降り、ブリッジの裏側から回り込むように攀じ登る。リベラートの確保で我々も続くが、スタンスがボコボコあり、初めに見た印象ほどは困難ではなかった。ただ、このブリッジが崩落したらどうなるのだろうと思うと気持ちのいいものではない。
 クレバスを抜けると傾斜はぐっと落ち、頂上へ続く大斜面となる。私は、またシールで斜登高して行く。日差しが強くなり、暑くてしかたが無い。出発した時はマイナス15度、今はプラス15度である。高度も6500mを超え、すっかりペースダウン。ツボ足の4人は、ザックをデポし、空身になって登って行く。私もアイゼン、ピッケル、防寒着などをデポ。一人で歩いている私はつい立ち止まって,深呼吸する回数が多くなり、次第に皆に遅れをとる。
 左手に顕著なピークが表れ、あれが頂上だとするとまたスキーを外さなければならず、いやだなぁと思うが、皆はなぜか右へ右へと進んでいく。ゆるい頂稜に出てからも右へ進んでいくと、皆が腰をおろしているのが見える。休憩しているのかと思いながらたどり着くとそこが頂上であった。時刻は12時40分。皆は20分程前に着いていた。
 先ほどのピークはここより僅かに標高が低そうだ。「やった!」という感じより、もう登らなくてすむという気持ちの方が強かった。皆と握手を交わし、記念撮影。周りの山々は雲海の中に浮き沈みして、展望はピスコの方が良かったかなと思う。ケーナを一曲吹いてから、滑降の準備にかかる。
 大斜面を自在に滑降といきたかったが、気温の上昇で雪はひっかかりやすくなり、高度の影響もあり、あまり快適ではない。横山さんもショートスキーで滑ってくるが苦労しているようだ。クレバスは、右に大きくトラバースすれば巻けるはずだったが、一人だけ未知のルートを行くのも心細かったので皆と一緒に登ったルート沿いに滑り、クレバスはスキーをザックにつけて懸垂で降りた。再びスキーをつけるが乱氷帯では、スキーを担ぐ。20〜30m歩いて下るといいかげんいやになり、スキーが使えないか、右側の斜面をのぞいてみる。どうやら滑れそうなので、ここからは登路を外して一人で滑降する。横山さんは、クレバスから下はスキーは担いで降りると言う。
 傾斜は40度近いが、北西を向いた斜面は太陽をまともに受け(南半球である)、柔らかくなっており、滑落の心配はあまり感じない。両ストックを使ったジャンプターンで下るが、すぐに息絶えだえになる。ちいさなクレバスは登ったときとは別なスノーブリッジで超え、もうひとつ亀裂を飛び越えたところで下方を見ると、斜面はいっそう傾斜をまし、一部、真下が見え無くなっている。こういうとき,日本の山なら滑ってしまっても何とかなるものだが、氷河の山では、その下はアイスフォールになっている事が多い。しんどいが登り返すしかない。亀裂の上まで、50段程、階段登高で登り返し、充分な高度を稼いでから、左へ斜滑降して登路の方に戻る。登りに使った踏み後を確認して、また下方へ滑ろうとするが、先ほどよりは傾斜は緩くなっているのに、ビビってしまってターンのきっかけがなかなかつかめない。踏み後で斜面が荒れていて滑りにくいせいもある。一休みして呼吸を整え、気持ちを落ち着けてから再挑戦。リズムがつかめればどうということはなかった。ようやく傾斜が落ち、最後の20ターンぐらいは余裕で滑ることができ、コルの雪原におりたった。皆とはコルで落ち会う事にしていたが、かなりゆっくり降りているようで、この暑さの中でずっと待っているのもつらい。先にC2に戻ることにして大声でコールしてからプラトーにスキーを滑らす。午後3時45分、C2に帰着。テントキーパーをしていたポーターのパウリーノに紅茶を入れてもらい、一息つく。野村さん達は5時15分、横山さんはコルからまたスキーをはいて5時20分に戻ってきた。全員登頂を祝って盛大に祝杯を上げたいところだが、野村さんも横山さんも、テントに入ると、ほとんど何も摂らずにそのまま寝てしまった。我々3人のテントはコンロもどうしても見つからず、私も冷めたスープをすすって寝るしかなかった。

 7月17日 5時頃、横山さんが目を覚まし、出来るだけ早く出発し、「今日中にワラスまで戻ろう」と言うが私は雪が緩むまで待ちたかった。横山さんが自分でリベラートに話しに行くが、彼もまだ眠っていたので、我々も、もう一眠り。7時半頃起き出して撤収にかかるが、何やかやで時間がかかり、出発は10時半頃になってしまった。
 途中のクレバスは、左からスキーをつけたまま、越えられそうだったが、無理をしてケガでもすれば馬鹿らしいので、やはり懸垂で下る。C1を過ぎると大斜面となり、横山さんと写真を取り合いながら滑る。ワスカランをバックにした大滑降を堪能した。氷河末端に12時30分着。アンデスのスキーを終了した。

ピスコ ワスカラン  計

登高高度 2220m 3840m  6060m
滑降高度 1120m 2180m 3300m

道具

使用スキー:アトミックツアーキャップガイド2000年モデル 180cm
靴:ダハシュタイン、DCエキストリーム
シール:アセンション
ストック:ディアミール2段式

追記:8月中旬、リベラートが山で亡くなったという知らせが入った。まだペルーの楽しかった思い出に浸っていたときだったので、一同皆ショックだった。この場を借りて、謹んで冥福を祈ります。