キリマンジェロ(5895m)

2002/12/28〜2003/01/04
メンバー:常陸民生、進藤柏男(小淵沢山岳会)、ほか鞄ケ祖神の公募のキリマンジェロ登山メンバー8名。

 キリマンジェロ登山を思い立ったのも際立った動機がある訳ではなかった。今回同行した進藤さんより以前から「キリマンジェロに行かないか?」との提案はあったものの、重い神輿を揚げたのは10月も半ばであった。最初、全くの個人旅行として行きたかったので各フライト便を問い合わせたが既に満席。結局、アフリカ専門の旅行代理店である鞄ケ祖神に問い合わせたところ、同社でキリマンジェロ・ツアー企画して居り、他社の同ツアーより大分格安である(総額 \400,000.-)ことが解かった。手軽にアフリカ大陸最高峰をと云う事で、最終的にこのツアーに参加することにしてしまった。登山そのものの困難さは全く予想されなかったが、5日間で6000mを昇り降りするには、かなりの心肺力を必要とする(5500mで空気中の酸素量は平地の約50%)と思われた。久々に富士山での高所トレーニングに出かけ、出発までの50日の間に3度頂上まで行き、頂上で2度1泊ステイをした。

 それと、ツアー会社の鞄ケ祖神に条件を出し、登山中は他のメンバーと一切行動はともにしないこと。マイ・ペースで登ることを認めて貰った(このことは、後でトラブルの種となったが登山を成功させる為には仕様のないことであった)。

12/28〜29 成田〜香港〜デュバイ〜ナイロビ

 成田から私の同行者である進藤さん、私、他に出版社社員の中年男性、中年の女性、気象庁の若い男性 5名と関空からの四国の中年高校教師、他OL3名が香港で合流した(メンバーの年齢層は私と進藤さんが還暦、中年、20代が4名の構成)。ナイロビで鞄ケ祖神の日本人スタッフが合流した。早朝にナイロビに到着したが、2日前にケニヤの大統領選挙が終わったばかりで市中が騒然として居り、外国人は出歩かないほうがよいと云われていた。

12/30 ナイロビ〜タンザニア国境〜マラング(バス移動)

 ナイロビからバスで13時間をかけて登山基地であるマラングに向かう。大草原を行く旅であったが、天候が悪いせいか動物は姿を見せなかった。マラングの近くで雲の切れ間からキリマンジェロの頂上付近が見えてきた。

12/31(曇り、時々雨) 登山口/マラング・ゲート(1970m)〜マンダラ・ハット(2720m)

 マラング・ゲートでの管理事務所で国立公園入域手続きを行い、キリマンジェロ登山許可証の交付を受ける。同時に、登山期間中のガイド/ポーターの割振りが行われる。日本人10人のパーティに対して、3名のガイドと20名のポーターが付く。従って、メンバーはサブ・ザックだけで歩く(これらは全て登山規約であった)。

 マラング・ゲート10:10出発。進藤さんと私は先を急ぐ。通常のコース・タイムの半分の時間で歩くことを申し合わせてあった(5000m地点までは、逆に心臓に負荷をかけたほうが短期間の高所順応にはいいのではないか?との結論であった)。鬱蒼としたジャングルの中の登山道であるが、幅も広く整備されている。特に多くの白人の登山者に行き会う。13:20マンダラ・ハットに到着後、激しい雨となった。ハット(小屋)内は100人位の登山者でごった返していた。

01/01/03(雨、曇り、雨) マンダラ・ハット〜ホロンボ・ハット(3658m)

 08:30雨の中を出発。約30分の登りで密林帯を抜け、低い潅木帯へと変わる。下山者に多く出会う、口々に"Happy New Year"。出発前に得た情報によると、キリマンジェロ一帯はこの時期には乾季とのことであったが、山頂はすっぽりと雲で覆われ山麓は定期的に雨が降る。しかも、殆ど赤道直下であるため曇っていても3000mの高所でも日中20℃はある。従って、高温多湿での行動であった。時折、前後をポーターによって支えられた病人を乗せた巨大な一輪車が猛スピードで降りてくる。高山病で倒れた登山者を降ろしているのである。やがて、リッジを大きく回りこむとホロンボ・ハットであった。

 背後の谷一面にテルテル坊主を大きくしたような形のゴーストツリー(幽霊の木)の林が望まれる。この木の頭の部分は大きな葉で覆われていて、この葉は昼間は開いた状態であるが夜になるとしぼんでしまうとのことであった。ゴーストツリーの名前の由来はここにあるかも知れない。この木はこのホロンボ・ハット付近でしか見られなかった。

 ハットはバンガロー形式になっていて各パーティごとに割りあてられる。ベッドも清潔で快適ではあったが、外は雨であった。食事は食堂で集まって摂ることになるが、メニューはスープ、ゆで卵、チキン・フライ・パン。決して美味い料理ではないが量はある。缶ビールは2ドル、ミネラル・ウォーターは3ドルで別途に販売されている(この価格はどのハットでも同じであった)。

01/02(曇り、霙、雨)   ホロンボ・ハット〜キボ・ハット(4710m)

 朝の内は雲が上がり頂上付近が見渡せた。他に2,3の日本人パーティに出会ったがどこもきれいに隊列を組んで歩いている(これは日本人だけに見られる特異な現象)。我がパーティは私と進藤さんがはるかに先行し、到着したハットで後続するポーターの荷物を数時間待つパターンであった。それに、他の日本人パーティは我々より登山期間も2日間は余裕のある日程で行動していた。次第に潅木帯より瓦礫帯に変化する。通称サドルと呼ばれる広い鞍部帯に出る。日照りになれば防ぐものもない暑い登山道であろうが、雨から霙に変わってきた。キボ・ハットに近づいた頃、さらに激しい降りとなった。ハットに入っても寒い。ハット内は火気厳禁であった。二段式ベッドが置いてある小部屋で震えてポーターの到着を待った。夕方になると雨が止み、進藤さんは5000m地点まで行って来ると出かけたが、私は行かなかった。明日は好天が予想されるとの情報が入った。夕食後、数時間の仮眠をとった。

01/03(晴れ) 
  キボ・ハット〜ギルマンズ・ポイント(5682m)〜ウフル・ピーク(5895m)〜キボ・ハット〜ホロンボ・ハット


 零時前に起床し、軽食をとって0:30に出発。外は満天の星空であった。既に前方は数パーティのライトの明かりがジグザグに続き、夏富士登山のようであった。傾斜も吉田口ルート位であった。身体の疲れは感じなかったが、闇の中の登山のせいか快適さはまるでなかった。5000mを過ぎるとストックに寄りかかって嘔吐している数人の登山者を見かけた。

 06:00過ぎに日の出があった。アフリカ大陸は雲海の下に沈んでいた。ちょっとした岩場の斜面を乗り越したところがキリマンジェロの前峰と云われるギルマンズ・ポイントであった。本峰であるウフル・ピークは火口壁沿いに真近に見えるが、いったん下って氷河沿いのリッジを登り切ったところにある。右側の雪の積もった巨大なクレーター部からまた別の氷河へと続いている。その向こうに遥かケニヤ山が望まれた。ギルマンズ・ポイントから火口壁をトラバースするように新雪の積もった登山道を一旦降る。クラストしている個所はないのでツボ足で充分であった。コルから緩い傾斜を20分も登るとキリマンジェロの最高地点ウフル・ピーク(5895m)であった。08:15到着。木製の大きな頂上標識が建てられていた。正面には巨大な氷河塔が連なっていた(このキリマンジェロの氷河一帯も2015年頃には地球温暖化によって完全に消滅すると最近発表された)。私は単独で登って来たが、頂上には既に10人位の先行者が居り、その後も三々五々と登って来る。比較的にのどかな感じのする頂上である。30分ほど滞在して下山にかかる。途中、我がパーティの高校の先生と気象庁の若者に出会う。若者は相当ヘバリ気味。"あと20分で頂上!"と声援する。"進藤さんは来ているのか?"と聞いたが、解からないとの返事であった。初めて軽い頭痛を感じたが、高度を下げることによって直ぐに解消した。

 10:20キボ・ハットに帰着。進藤さんはやはりギルマンズ・ポイントから引き換えしていた。昼食を摂り、更に下のホロンボ・ハットに向かう。16:30到着。本日は17時間に及ぶ行動であった。

01/04(雨のち曇り)   ホロンボ・ハット〜マンダラ・ハット〜マラング・ゲート

 雨の中のジャングル道を降る。11:30に登山口マラング・ゲートに到着。登山管理事務所から登頂者に登頂証明書が渡される。ウフル・ピークの登頂者だけではなくギルマンズ・ポイントまで到達した者にも発行される。前峰だけでもキリマンジェロ登頂と云えるかもしれない。結局、我がパーティ日本人10名の内、ウフル・ピークまで到達したものは3名だけであった。聞くところによると、"誰でも登れるアフリカ最高峰"との謳い文句が日本のツァー会社の宣伝文にあると云う。今回もこれを信じて参加した何人かが居たが、安易には登頂できるものではないと思い知ったようである。確かに、頂上まで危険個所はなく、殆ど1000mごとの標高差でハットが設置されている。しかし、5000m以上は"危険ゾーン"であることに間違いはない。現に、管理事務所できくと毎年数名は高山病(特に肺水腫)で死亡していると云っていた。2年前に鞄ケ祖神のこのツァーでも事故があったとのこと。キリマンジェロではヘリコプターによるレスキューは期待できなくて人力での救助しかなく、収容されるまで相当な時間を要す。キリマンジェロ登山にしても、事前の高所認識と対策が必至である。

01/05〜07 アルーシャ〜ナイロビ(バス)、ナイロビ空港〜デュバイ〜香港〜成田

 山麓の町アルーシャのホテルで泊り、早朝出発。バスでケニヤに再入国し、ナイロビに昼過ぎに到着。昼食と買い物を早々済ませ、ナイロビ空港に向かった。登山期間以外は全く余裕のないスケジュールであった。ナイロビからは、デュバイでの18時間のフライト待ちも含め成田到着まで足掛け3日間の長い帰路であった。