2003年ペルー報告
カシャン ピラミデ アルテソンラフ サンタクルーズ

2003/07/19-08/24

岡村 孝行

 今回で5回目のペルーだが、これまでとは違うのがパートナーがいることだ。若い佐藤嘉彦が現地で合流する。あまり当てにできないガイドに高い金を払う必要もない。少しレベルの高いところもねらえるだろう。
 昨年は7月はじめから暑い日が続いたこともあって、現地に入った時点で疲れがひどかった。それもあって今年は体調を整えて元気にいこうと思っていたが、ワラスに向かうバスの中で異様な腹痛を覚えて「急性肝炎かもしれない」などと思い、途中で引き返そうとさえ考えるほどだった。でもワラスの常宿ベタニアに落ち着くとぴたりと治まった。嘉彦とYCCの佐野さんなどが迎えてくれる。
 成田を出たのが7月19日で、日付変更線をまたいでその日のうちにリマに着き、そこで1泊して20日にはワラスに入った。これまでよりも体の調子がよかった。嘉彦はすでに高度順化はできている。私は24日から7日間でカシャンに入り、順化週間とする。


1. カシャン

 この山に登るにはラフコルタの谷に入り、ベースを張ってアタックキャンプをあげるのだ。ベースは広々とした草原だった。またカシャンへの一般的な登山口でもないからほかのツーリストはいない。昨年まででなじみになったポーターたちとは連絡が取れず、パウリーノという、リベラートの奥さんの妹の旦那の兄、と書いてみると長いけど近い親戚の男を雇う。広い草原に清冽な小川が流れ、鱒が釣れるという。ワラスの町がほぼ3000m、ラフコルタの草原が4100mだった。入った日は疲れて息ができないほどだった。
 翌朝、周りに霜が降り強烈に冷え込む。-10度くらいまで冷えるようだ。正面にワンツァンがそびえている。セラックがひどく押し出していてとうてい登れそうではない。目指すカシャンは右手、東の支谷をたどる。登ってみると全く人が入った形跡がなく、ただ牛の通るかすかな踏み跡が続くのみ。息を切らせてゆっくりしたペースで登り続けると、やがてカシャンの全貌が開けてくる。5時間登った岩場に絶好のテントサイトを発見する。全く水平な岩畳で、テント5張りほどは張れそうだ。ここにも人跡はなく、勝手に「オカムラテラス」とする。これほど見事なテントサイトは世界でもまれだろうと思う。5130m。下りはケルンを積みながら行く。登りの時に、ちょっと急な部分があって、重荷だったら危ないと思ったので別のルートを探しておく。
 翌26日は荷揚げだ。私はロープやガチャ類などで15キロくらいか。息が上がって苦しいが前日よりなれているはずと思ってがんばる。でも3時間で動けなくなりへばる。パウリーノに全部預けてオカムラテラスを往復してもらう。その時間にカシャンを観察する。問題は3カ所で、初めのセラック帯、途中の大クレバス、頂上直下の急斜面だ。特にクレバスは斜面を完全に横切っているようで、これを越えることができる部分があるのか、確認できない。セラック帯にはヒドンクレバスも多いだろう。私一人で行くには危険が多いように見えた。ベースに戻ると、不調だったMSRを直そうとしていたパウリーノが、部品をなくしてしまう。3時間も探したが見つからない。コンロがなければアタックキャンプには上がれない。翌日麓の村まで往復して別のコンロを持ってくることにする。ACで3泊の計画が2泊になってしまうが仕方ない。
 翌日はPが暗いうちに出発していった。私は一日暇をもてあました。夕方4時近くになって戻ったPからミミズを受け取って釣りにでる。4200mの湖まであがって竿を出すと全くあたりがない。下りながら釣り探っていくと、18cmが1匹。30cm超は惜しくも釣り逃がす。鱒は4000mを越えると生息が難しいのかもしれない。釣るなら下流の方がいいと思った。
 翌28日、前日にPに「全部片づける」と言ったのが、うまく通じなくて彼はジャガイモも卵も全部食ってしまった。上に行って食うものがなくなるじゃないか。すでに重いものは上げてあるからこの日は軽い。3時間半で到着する。歩きながら改めて観察すると、やはりカシャンの本峰は危険すぎるように思え、その南の少し小さいのをねらうことにする。オカムラテラスで休んだ後、偵察にでる。1時間登ったら引き返すと言うことにして調子よく登る。ルンゼを詰めて岩にとりつき、上部の雪に乗ると後は頂上まで難しいところはないように見えた。頂上直下の斜面が少し急になっている。問題はそこだけだろう。見上げていると2回ブロックが転がってきた。午後のその時間には頻発するようだ。ただ、落ちてくるルートは決まっていてそれははっきりと筋になっているので避けることができる。翌朝5時半に出発して9時には頂上に達した。5610m。頂上の急斜面も手こずるというほどではなかった。すぐ隣のカシャン本峰とは高差数十mだが、キノコやナイフリッジがあり、簡単ではなさそうだ。下りは初めの3ピッチをボラードに掛けて懸垂する。岩場も懸垂する。下りに3時間かかった。
 この西面ルートは、もしかすると私が初めて登ったのかもしれないと思う。人が少なく、水もきれいで鱒も釣れる。オカムラテラスは寒くない。0度くらいか。水も凍らない。2泊しかできなかったが、ハイキングで行っても楽しめるだろう。


2.ピラミデ アルテソンラフ

 8月2日からは嘉彦と一緒にパロンに入る。カラス、アルテソンラフ、ピラミデのうち、2つ登ろうと考え、日程的にはカラスはアプローチが余分にあって難しいし、私は以前からピラミデに惹かれていたのでカラスは除くことにした。ACの移動もあるので、ポーターは二人だ。
 初日、嘉彦は調子を崩していた。下痢がひどいらしい。入り口から2時間のBCまでへろへろでたどり着く。翌日、ピラミデのACに向かうときも不調だ。天気は西風が強く、山には雲が激しく流れる。ACには二人の米人がいて、前日24時間かけて登ったという。話を聞く。ACから取り付きまで様子を見に行くが、ここからは岡村も息が上がって苦しくなる。単純に見えたルートも近づくとなかなかやっかいで雪に乗るまでの岩場の横断もしっかり見ておかないと行き詰まる。夜中に行動するなら判りやすく、易しいルートをとる必要がある。2時間ほど進んだ雪の台地に登って大体の見当をつけたところで引き返す。岩場にはしっかりケルンを積んだ。
 翌朝3時前に起きてまずお茶をとコンロを取り出すと、これがまた不調で火がつかない。何も食べずに出発することはできないので、この日は停滞としてコンロを持っていったんベースに降り、ゆっくり休養とする。
 翌朝(8月5日)、3時過ぎに出発。二人とも調子があがらない。取り付きでうろうろしている間に明るくなった。下から観察したときにはのっぺりした雪面のトラバースのつもりだったのに、登りはじめてみるとたいへん複雑で、岩、ミックス、ひだ、リッジといずれも70度以上の傾斜でいやらしい。右上へと行くはずが真横に行くことも珍しくない。直上するようなすっきりしたピッチがない。高度が稼げない。それに二人とも不調で、このまま行くとそれこそ24時間かかりそうだ。ようやく前日のアメリカ人Pのらしいトレースが見えた。それはそこからやはり右上に向かっている。左上の、ルートとは思えないルンゼにフィックスが見えた。振り返るとチャクララフの肩の高さだ。5600mくらいだろうか。そこから何度もカナレータを越えて、頂上付近のやっかいなキノコの連続した部分を処理しなければならない。とても頂上は無理のように思える。「3時まで登って引き返そう」というと嘉彦は「引き返すなら3時だって1時だって同じじゃないすか」とすぐに引き返すことになった。下りはトラバースせずにまっすぐ降りた。先に降りた嘉彦はまずアンカーを作ろうとするので時間がかかり、私は待ちきれずに降りる。次からは嘉彦がアンカーを作っている間に私が降りていくというふうにする。先に嘉彦が降りるときはスノーバーを打ってバックアップをとるようにした。取り付きから水平距離にすると100mくらい東よりに戻る。ここからほぼ水平にACに戻るのだが、少しの登りでもきつかった。暗くなってケルンを頼りにACに戻る。ひどく疲れてお茶とビスケットを口にするとすぐに眠ってしまう。
 翌日改めて観察すると、ピラミデは米人Pの言うとおり、難しくはないがルートが複雑でやっかいだ。どう考えてみても時間がかかる。特に頂上付近のキノコが複雑で、この処理に苦労するだろう。もう一度挑戦しても失敗の確率が高い。ならば、アルテソンラフのバットレスルートに集中した方がいい、という結論になった。1日BCで休養を取り、ACを上げる。ちょうどバットレスの岩から落ちてくるルンゼの出口に、がらがらの岩をならしてテントを張る。昨年設置するときに同行するはずだったリベラートの慰霊の銅板は、モレーンキャンプにあった。午後取り付きまで偵察にでる。予想通りまっすぐにバットレスにつながる雪で、途中5つほどのクレバスを越える。
 8月8日、午前2時20分発、快調に取り付きまで。モレーンキャンプの方から3つの明かりがトラバースしてきた。私たちが取り付きにつくと彼らは100mほど先行していた。別のクレバスを越えて取り付いたようだ。アルテソンラフはたぶん95%くらいは一般ルートに行くからバットレスに複数が入るのは異常といえるだろう。登りはじめると、ずっと70~80度の雪壁でスタカットで行く。初めのミックス帯を抜けると広い雪壁となり、暗い中で先行Pが落とすブロックが飛んでくる。一つが私の顔面を直撃した。相手はフランス人らしいが日本語で罵倒する。明るくなってくると彼らはバイルも落としてきた。
 バットレスの最後は急なルンゼとなっていて氷壁が部分的に90度になった。その前のピッチで私がフォローで登っているときに、何でもないところで落ちる。右のピックを刺した氷が割れたのかもしれない。フォローなのに10mも流された。「何でだよー」と怒鳴る。よしは「大丈夫すか。次は俺がトップやりましょうか。」と聞くが、ここでめげてはいけないと思い、私がリードする。氷が均質ではなく、ちょっと緊張したピッチだった。これを抜けると後は一般ルートに合流する。
 私は薬を飲んでいなかったせいで、急激に力が抜けていく感じだった。ねむけもひどくなった。よしも遅くなっていた。時間もかかりすぎるので引き返した方がいいと思う。よしにそう言うと「エー、もう少しじゃないすか」とがんばるつもりらしい。私もそこから5ピッチほどは付き合ったが、私自身それ以上がんばると決定的に疲れて動けなくなりそうに思え、「よし、俺はここで休む。一人で行ってこい。」という。高差にしてあと200mくらいだと思った。彼は単独でアルパマヨに登ってきたばかりだ。あとの200mに難しい部分はない。彼はロープをたたんで一人で登りはじめる。私はビレーを取り腰掛けられるようにして休み、うとうとと眠る。しばらくするとガスがかかり、少し風が出てくる。時間がかかりすぎているかもしれない等と少し心配していると「おかむらさーん」と声がかかる。懸垂ルートからはずれていたので40mのトラバースで合流する。ルートは60mピッチで、10mはロープなしでクライムダウンしなければならない。暗くなり始め、アンカーはいっそう見つけにくくなる。5mmのシュリンゲが多かった。中には小さなバッグにつけるような細くて薄いテープもあった。最後は岩場の空中懸垂で不安定な雪の上に降りる。2年前と全くクレバスの様子が違っていて少しうろうろするが、トレースを見つけると後は迷うことなくACに戻る。10時帰着。私はお茶だけですぐに眠りについたが、よしはラーメンを作っていた。


3.サンタクルーズ

 私にとって今年の目標はサンタクルーズだ。6225mがすばらしい尖り方で屹立している。アプローチは短いのに登る人は極端に少ない。今シーズンも私が聞いた限りでは2つのパーティーのみだ。よしは「名前が聖十字架だから恐れ多いのではないか」と言う。
 13日、カシャパンパの顔なじみのロバ遣い、アキレスを雇う。ポーターはなし。BCまで高差2000mを2日かけて登る。薬を飲まなかった初日はばてた。BCに少しデポして二人でACまで重荷となった。よしは私の分を少なめにしてくれたのだがそれでも20kgを超えたと思う。目指す南東尾根はガイドブックの写真よりも雪が少ない。二人で観察しているうちに西尾根から大きな雪崩が発生する。西尾根は大きなキノコが連続し、ブロックが不安定で、どこからでも崩れそうに見える。南西尾根は上部がナイフリッジとなり、5900mにはギャップがあるが、そこを越えると後は傾斜が緩くなる。ACは5230mで、1日で1000mの高差を往復するのだ。私は夜半錠飲んでいた薬を朝も飲むことにした。
 16日0時50分発。支度をしていると轟音が長いこと聞こえた。この時間でも大雪崩が発生するのだ。昼間観察しておいたルートをたどっていく。6ピッチくらいで5400mのコルに達すると思ったが9ピッチかけてかなり上の方に出る。コルに直接出るのは難しい。雪壁は80度に近くなる。スノーバーは叩き続けないと入らない。スクリューもたびたび使った。そこから3ピッチで雪質が変化し、軟雪となる。深い部分はある程度堅く、肘までつっこんでシャフトを効かせようとするが、いつ崩れるか、落ちたら止めてもらえるのか、不安な登攀となる。途中でアックスをスノーバーに持ち換える。少しスピードも上がったが、よしはあまりに時間がかかりすぎることにいらついたか、登りはじめてしまう。振り向くと不安定な雪に深く埋めた最後のスノーバーも抜いてしまいそうなので「それは絶対に抜くな」と怒鳴る。よしは「このピッチで2時間かかった」という。次のピッチも悪かった。紙のように薄くなったナイフリッジを避けて80度を超える雪壁をトラバース気味に行く。よしがシャフトを刺すと先が突き抜けるのが見える。下から「右に寄れ」などと怒鳴るが、声がかれて届きにくくなっていた。足の長いよしでも、ちょっとしたリッジを回り込むのに苦労していた。もし落ちたら目の前にある2本のスノーバーが止めてくれるものか、心許ない。何とかリッジにはい登ってアンカーを打った。再び合流すると、その上にはさらにうねうねとナイフリッジが続き、5900mのギャップまでは3ピッチくらいはありそうに見えた。1ピッチに1時間としても暗くなって頂上ということになるだろう。ビバークの用意はしていたが5900mでは厳しすぎる。14時半だった。どちからともなく「だめだな。降りよう」ということになってリッジの雪を払いのけてボラードを作る。登りでは右上へとトラバース気味にきたので。そのルートで懸垂は難しい。まっすぐに南西面を降りることにした。ACとは尾根を一つ隔ててしまうが上から見た限り回り込むことに困難があるようではなかった。懸垂は11ピッチ。ほとんどボラードかスレッドで、下部のミックス帯では岩にシュリンゲを掛けた。予想通りの地形で、岩壁下部の雪にかなり高いところで降りることができた。懸垂が終わると18時ですぐに暗くなった。
 氷河の末端でロープを解き、ガレ場を横断する。暗い中では不安定でけがをしかねない。ACに戻ることは諦めて、ビバークにいい場所を探し始める。何とか二人が横になれるスペースを見つけ岩くずを取り払ってツエルトをかぶる。私は100ccほど残ったレモン水を温めて飲んだ。よしはそれもせず、すぐにいびきをかき始めた。夜中に私がよしを押し出して岩棚から転げ落ちたよしがぶつぶつ言いながらツエルトに潜り込んだのを夢のように聞いた。寒くて眠れないと思いながら、朝日が当たるまで横になっていることができた。 一晩眠るとよしは元気を回復したが、私は全く力が出なくなっていた。薬切れのせいもあっただろう。ようやくの思いでACにたどり着くと、その日のうちにBCまで降りた。これも夜になり、デポを探すのがたいへんだったが、よしの執念で見つけ出し、うまい食事にありついた。
 18日、ロバが担いできた荷物を自力で担ぎおろす。ロバは遠回りしたようなので近道を行こうと沢沿いに降り、私は難しくなると言ったのによしは「いけます。道があります」とついにゴルジュの入り口まで突っ込んでしまう。そこから強引に山腹の道に戻り、荷物が軽かったら気持ちのいい道をカシャパンパへとたどる。途中で私は道を誤り、サボテンの林に入ってしまい、ひどい目にあった。とげは刺さるときに痛いし、抜くときはもっと痛いのです。初めて知りました。

<反省>

1,嘉彦とは普段からパートナーというわけではなかった。私は充実していたけど彼は物足りないというか、不満な思い出になったかもしれない。事前にもっと二人で行くべき だったと思う。
2,DIAMOXに変わる新たな薬(GENEPHAMIDE)が出ているが効果は変わらないよう だ。指がしびれるなども同じ。私の場合もっと積極的に使った方がよかったと思う。朝 と夜に半錠ずつ飲んだ時は調子もよかった。高所になれたからと言って気を抜かずに飲 み続ける方がいいらしい。嘉彦は勧めても使わなかった。
3,アンデスでは60mロープが主流のようだ。アンカーは普通そのピッチで設置される。4,MSRが2度も壊れた。修理に習熟している必要がある。高所のビバークなどでは致 命傷となりうる。リペアキットも点検して、ドライバー部分などはやすりで研いでおくことが必要だ。
5,テクニカルアックスの使用については研究の余地あり。ストレートシャフトが有効である。クオークのシャフトは使えない。スノーバーをダブルシャフトとして登攀に使う ことも有効だと思う。