黒部五郎岳
2003年12月27日(土)〜31日(水)
CL佐藤(英)、SL佐藤(勇)、横山、丹野、佐藤(直)、松崎、佐藤(敦)、剣崎

12/27(土) 晴/曇/雪

打保集落(林道入口)09:40 〜15:30標高1490m(泊)

 前の晩(12/26)に川口駅を出発し、夜中の0時に神岡の道の駅に着く。1時には勇車の皆さんも合流した。通常、道の駅での仮眠はトラックのエンジン音がうるさいものだが、深い雪道に車の通りはほとんどなく、いたって静か。道の駅の建物の中で寝る。
 翌朝、まぶしい朝日の元、打保まで車で向かう。これがかなり遠く、道がわかりにくく、神岡から約1時間半。11月に下調べをしておいてよかったとつくづく思う。
 打保に車を止めるために、村の方に一言ことわって、スタート。さぁ今日はどこまで行けるだろう?林道は膝までのラッセル。8人で交互に100歩づつラッセルして進む。天候は曇りから雪に変わり、雪は静かにしんしんと降りつもる。
 登山道に入ると途端に道はわかりにくくなる。沢を何度か徒渉しなければならないが、徒渉点のポイントの判断が難しい。急斜面の下降や沢のドボンをしいられる。
 また、かなりの急斜面が出てきて下降も前進もままならず、沢の高巻きのように急斜面を直上して、進んだ箇所もあった。尾根にようやくとりつくと、あとはひたすら急斜面の登りで、ザックを置いての胸までのラッセルとなる。ラッセルは順番も大事だということを痛切に感じた。空身ラッセルの場合、実はセカンドが一番辛い。
 自分がセカンドになった時、自分の前のトップが男か女かで、その日のラッセルの辛さは全然、違ってくる。この日、トップが英明、セカンドが私であった。延々と続く、大股ラッセル。歩幅が合わないので、重荷をかついでほとんど自分でラッセルするようなものだ。自分がトップになる頃は、もうほとんど息も絶え絶え、死亡状態。そして、自分の目の前に立ちはだかる雪、雪、雪・・・。雪の大きな流れに溺れそうになる錯覚を覚え、恐怖におののく。
 足腰も相当疲れてきたなと思う頃1490m付近で、今日の泊まりとなる。
 整地してテントを二張り。夜は各パーティー自慢の料理に腕をふるい、「うーーーん、おいいしい!」などと、各テントで大声を出しあう。静かな雪の山合いに自慢声がこだまする。昼の雪はウソのように止んで、外は満点の星。遠くに町の明かりも見える。
(佐藤 敦子 記)

12/28 (日) 雪/曇

テン場05:45 〜水の平07:30 〜飛越・神岡新道分岐10:00 〜寺地山13:35 〜北ノ俣岳避難小屋16:45(泊)

 三時半に起床して準備をしました。五時半はまだ暗かったのですが、勇さんがすたすたと歩きだします。お手洗いに行ったのかなと思いましたがそれが今日の空身ラッセルの始まりでした。
 昨日は水の平までも行けなかった。今日はひと山越えてどこまで行けるだろうか。空はすぐに明るくなってきました・・・。二番手の私が指示して、一番手の剣崎さんを沢に追い込んでしまう。剣崎さんは雪の中に肩まですっぽり埋まってしまいました。すみません。後戻りする途中で今度は私が足を踏み外して穴に落ちそうになる。すんでのところで剣崎さんに引っ張り上げてもらう。勇さんがうまいこと、斜面に取り付いてくれて、越すべき尾根上に向かいました。
 空身ラッセルは苦しくも楽しい。突然重荷から開放されて、犬のように四つ足で足を回しながら進むのです。自分が百歩進むと後の人が七百歩、あるいはそれ以上、道をつくってくれるのはありがたい。しかしながら、ラッセルを終わって、とぼとぼと自分のザックの所まで戻るとしばし呆然とザックの前に佇んでしまうのでした。そんな訳で人と人の間は大きく開いて、元気な人は後続を待たずにラッセルを繰り返してくれました。
 昨日着いておきたかった水の平を越えてやっと、やっと飛越新道との分岐に着きました。と言っても、言われてみなければここが分岐ということはわかりません。英明さんの言葉を聞いて、赤布をみてなるほどそうかと思うばかりです。ところでもう10時です。いったい今日はどこまでいけるのでしょうか。私は寺地山に着いた時間で決まるなと思いました。英明さんは皆が休んでいる間にも一人でさっさとラッセルに行きます。仕方が無いから着いていきます。長いことラッセルしてくれてバトンタッチ。尾根上は雪が減って少し歩きやすくなったような気がしましたが定かではありません。なにしろ規定の(?)百歩がやっとです。それ以上は無理。(きっぱり)。全員、さっきよりももっと疲労困憊して、寺地山に到着。時刻は一時半。微妙な時間です。
 とにかく前に進むことにして、ここからは下りだから、それからちょっと登り降りがあって後はだらだらの登り、などとぶつぶつ言いながら進んだのでした。地図上の勾配は緩いのですが、ちょっとの登り、が大変でした。そのあとやっと避難小屋のある辺りが見えてきて、あの樹林の中かな、いやその先の樹林の中かもしれないなどと思いながら進みました。
 空身で長いことラッセルしてくれていた英明さんが戻ってきて「避難小屋がさぁ・・・」と冴えない顔で言います。見つからないからテントを張ろうと言うのかしらと思いました。「あったから。」とつまらなそうに言って自分のザックを取りに行きました。あー良かった。もうちょっとだ、と安堵しました。小屋の見えるところまで行くと丹野さんが小屋に上がるため沢の段差に取り付いているところで、悲鳴を上げながら登っていくところでした。その後をついていくと、こんなところザックを背負ったままでよく登れたと心底感心してしまいました。
 着いた。やった。良かった。へとへとになりました。外はまだ明るかったです。勇さんが戸口の前の雪をきれいに取り除けてくれて小屋になだれ込みました。
 (松崎 洋子 記)

12/29(月) 曇り/ガス/猛吹雪

北ノ俣岳避難小屋05:45〜北ノ俣岳08:20〜黒部五郎岳直下11:30〜赤木岳と北ノ俣岳中間ビバーク15:30

 アタックの日の早朝、空には昨夜まで銀色に光っていた月はなく、瞬く星も見えない。しかし、風も無く、とても静か。雪も降っていない。
 北ノ俣岳避難小屋は、樹林帯の谷間に隠れるようにあるので、非常に静かである。そこから這い上がるように、北ノ俣岳に続く大斜面に上がっていく。一歩一歩、ワカンで足場を築きながら、ヘッドランプで足元を確認しつつ、黙々と交代でラッセルする。
 じんわり汗をかく頃に、向こう側に日本海と富山の街が、暗闇の中にくっきり見えてきた。「あぁ、人々の営みが暖かく輝いて見える。」と励みにする。そして思った以上に日本海に近いのだと、実感した。
 朝焼けが地平線に見える頃、空の分厚い雲が気になった。しかし、風は無く、穏やかな様子で、乗鞍岳、焼岳や、岐阜側には白山が白く光り輝いて良く見え、振り返っては歓声を上げて喜んだ。
 北ノ俣岳のこの南大斜面は、夏は池塘と花畑でとても綺麗なところだそうだ。木道も整備されており、トレッキングには打ってつけだろう。春はスキーにぴったりの斜面だ。
3日目ともなると、だんだんと疲れが出てきて、8人力をあわせてラッセルをしてきたが、気がつくと前半組と後半組になってしまっていた。英明さんと丹野さんは速い。私も頑張ってついていこうとするが、息があがってしまい辛い。ワカンからアイゼンに付け替えていると、横山さんが追い抜かしていった。幸い登るときは背後からの南風なのだが、上部では吹きつける風が強くなる。
 北ノ俣岳頂上に続く稜線にあがると、見事な眺望に圧倒される。薬師岳、水晶岳や鷲羽岳、高天原...そして、右の奥には鹿島槍と鋭く突き出た槍ヶ岳、さらに笠ヶ岳と名峰のオンパレード。
 しかし、風が強い。日差しもあり、稜線の天候としては普通なのだろうが、私などはまっすぐ歩くのが辛いほどだ。北ノ俣岳頂上までひと頑張りし、後続を待つ。英明さんと丹野さんは、風を避けるために少し先で休んでいる。オレンジのヤッケがようやく稜線上に上がってきた。松崎さんの足取りが重い。そしてラストを勤める勇さん。
 全員が揃って、この後どうするか協議する。松崎さんは「全然(調子が)ダメ」と言う。しかし、避難小屋から北ノ俣岳頂上まで要した時間はそれほど遅くなく、時間も早いことから、1番の目標を黒部五郎岳全員登頂、2番目に行けるところまで行き、状況によって登頂したい組と引き返す組とに分かれる、要するに「行けるところまで行く」ことに決めた。
 黒部五郎岳の直下は、壁のように立って、どっしりと見える。近いようだが、北ノ俣岳からは赤木岳を挟んで、アップダウンが多く、なかなかの長丁場である。この日の午後から天候が崩れることはわかっていたので、何とか昼前に目処をつけたいものである。しかし、疲れからかスピードが上がらない。右(南)側から吹き付ける風はますます強くなり、雲が低く垂れ込めてきた。どうにか黒部五郎岳直下の鞍部に到着したものの、だんだん視界がきかなくなり、強風に不安になって、英明さんが直下の斜面に取り付くべく進んでいたが、後続を待った。
 「本当に行くのだろうか?」 「この風とメンバーの疲労度から全員の登頂には無理があるのではないか?」 「確かにこの鞍部から頂上までは、元気ならば30〜40分ほどで登れそうだが、この調子では1時間半くらいかかりそう...。」 「何よりも天候が崩れてきているのが心配。登頂できたとしても帰れなくなるのでは。」 勇さんは「英明さんに納得してもらおう。」と言う。みんなの足は、強風吹き付ける鞍部で止まっている。しびれを切らした英明さんが戻ってきて「どうして来ないの。こんな所で風に吹かれていたらますます消耗するよ。」 「行かない?」みんなの顔をのぞき込みながら、聞く。ラッセルを先導してきた丹野さんでさえ、躊躇している。申し訳なく思いながら、みんな渋る。
 それよりも、私は「時間がない、早く降りなければ。」という切迫感を感じていた。予想していたより天候の悪化が早く来たのだ。ここまで8人全員で交代しながらラッセルしてきたのだ、やはり全員で無事にやり遂げたい。残念だが、引き返すことを決めた。
 赤木岳まで戻るにも、吹雪はさらに強くなり視界は50メートルほど。トレースは瞬く間に消えて、地形を頼りにルートを探す。そうこうしているうちに視界は利かなくなり、先頭を勇さんが磁石と首っ引きで、2番目を英明さんがGPSと首っ引きで、先導する。後から聞くと、英明さんが、左、右と指示を出し、勇さんが方向を確認して先導して下さっていたということである。あの視界の悪さからすると、GPSがあったからこそ、動けたのであって、地図と磁石だけでは、早々に動けなくなっていただろう。しかし、先導する2人が首を垂れて、その後に6人がゾロゾロ続く様子は、何とも不思議な光景だった。
調子の悪かった松崎さんは、強風によろめき、相当疲れている様子。後ろの敦子さんが松崎さんのザックを支えながら懸命に歩いている。風の避けられる北側に入ったところで休憩を取るも、行動食が何も食べられないという。せめて温かいテルモスのお茶を飲んでもらい、荷物を分担する。
 気を取り直して、出発すると、松崎さんは足取りがしっかりし落ち着いたようである。しかし、今度は剣崎さんがスイッチが切れたように、足元が怪しくなり、よろめいて立ち上がるのも一苦労になる。ラストを歩いていた私は、大声で先頭に向かって「待って!」と叫ぶが、この吹雪で全く聞こえていない。剣崎さんの前を歩いていた横山さんが半ばしかりつけるように「歩くんだ、歩くんだよ!」と励ます。どうにか支えながら合流すると、ビバークするという。
 しかし、この強風を完全に避けられる地点ではなく、少し、北側(風は南から)の斜面に掘ってブロックを積んで、テントを張ることにした。3本のスコップで必死に掘り、ブロックを積む。みんな疲れていて、なかなか効率よくいかない。体が思うように動いてくれず、もどかしい。どうにかブロックらしくなったところで、テントを張るが、風で破れないよう飛ばされないよう必死でささえながら、どうにか張ることができた。
 とりあえず、テントに全員で入り、今後の作戦を練る。丹野さんが、疲労回復のために、栄養剤の錠剤をみんなの口の中に入れてくれた。行動食を食べているうちに、風がおさまってきた様子だったので、下山を試みようと、テントから出て、撤収しはじめるが、一時的なもので、断念する。諦めて、再度テントを張り、一晩ビバークを決める。
 ビバークの夜は長い。1つのテントに8人入り、床周りにグルッとザックを敷いてその上に座り、シュラフカバーを足元からすっぽり被って寒さをしのぐ。寒気が吹き込む出入り口は持っていた1枚のテントマットをあてがって、わが家完成! 横山さんは、なんとエアマットとシュラフまで持ってきていた(ビバークを予想していたのか??)。落ち着くと、丹野さんが気持ち悪いといって吐いてしまった。ラッセルを頑張ってくれていたので、疲労のせいであろう。
 一晩中、テントを吹雪がバタバタを叩き、破れやしないか、冷や冷やさせられた。
 ウトウトしかけては1時間〜1時間半ほどで、寒さのせいで目がさめ、その度にガスを焚いて、ラジオをつけてお喋りし、気を紛らわした。ラジオから流れてくるクラシックが、心を落ち着けてくれる。そして、みんなの明るいお喋りが気を紛らわせてくれる。

12/30(火) 吹雪/曇り/快晴

ビバーク地点7:50〜北ノ俣岳避難小屋10:10

 ようやく辺りが明るくなってきたところで、お湯を沸かし、ミルクティーやココアで体を温め、持っていたパンなどを分け合って朝食代わりにした。天候は昼過ぎには回復するようである。朝方までは降雪があるということだが、風が昨日よりも格段に落ち着いてきたので、意を決して外に出る。
 ビバーク地点は、予想していたが、本当に北ノ俣岳頂上のすぐ近くだった。南面に下りる下り口が、わかりにくく、一度とおり過ぎてしまったが、横山さんの動物的?勘で、下り口をいとも簡単に見つけてしまった。左(北側)の谷に下りすぎないよう注意しながら(登研が遭難したときは、一度谷に下りてしまったそうである。)、慎重に下りてゆく。視界が晴れ、我々が3日前登ってきた寺地山などが彼方に見えた時、ようやく、無事に帰れる、と安心した。我らがベースの避難小屋は寺地山からこちらに向かっている尾根が、樹林帯に吸収されたところにあるはず。「この斜面はスキーにはバッチリだね、また春来よう。」などと明るいお喋りも出る。
 小屋のとんがり屋根が見えた時、空が真っ青に晴れた。日差しが温かく、おかえり、と言ってくれているようだ。ドアをあけると、我々が出かけたそのままの状態になっていた。誰もあの後この小屋を訪れていないようだ。小屋の前で無事帰還の記念写真を撮り、我が家のように寛いで、思い思いに温かいお茶や、お酒を口にして、安堵の幸せな気持ちに浸る。
 下山には、トレースが消えているであろうから、予定の日程では帰れない恐れもあるため、小屋から携帯電話でそれぞれ自宅に連絡を入れた。私などは、もちろんビバークの話はせずに「雪が深いので時間がかかりそうだから。心配しないで。」という具合にごまかして。
 早めの夕食を準備していると、元ぶな会員のYCC佐野さんと、パートナーの高橋さんが小屋にやって来た。湯俣から黒部を横断してきたのだそうだ。前半は三浦パーティとずっと一緒だったそうである。
 横山さんはお酒が入って、絶好調であった。佐野さんが「こんなんだったかなー」と言うくらい。美味しいツマミとお酒で、さながら下山祝いのように寛いだ。ずっと食べていなかったこともあり、温かい食べ物が身に沁みた。しっかりした避難小屋で平らになって寝られ、天井に吊るしてフカフカに乾かしたシュラフにくるまれるというのは、何という贅沢だろう。なんとか、年内中に下山したいこともあり、早めに寝ることにする。夜中暑くて目が覚めるほど、小さめ小屋は10人の体温で温まっていた。昨夜のビバークが夢のようだった。

12/31(水) 曇り/雪

北ノ俣岳避難小屋05:20〜寺地山06:40〜飛越・神岡新道分岐08:05〜水の平08:45〜林道終点10:00〜打保集落(林道入口)11:15

 下山の日は、雪がちらついていた。佐野さん達よりも、先に出発する。ヘッドランプでトレースを捜すのはなかなか大変なことだ。かすかな痕跡を探して、なるべく外さないように交代でラッセルする。寺地山までの途中の鞍部で横殴りの雪が降ってきた。天気は悪化しているようである。ガスで回りは良く見えない。
 飛越新道との分岐まで、なかなか良いペースで来たところで、佐野パーティに追いつかれた。水の平で、テント跡を見つけ、山田ガイドパーティがここまで入ってきたことを確認する。(あとで、ここをベースに北ノ俣岳をピストンしたと分かったが、まったくトレースが消えていた。)その後は、しっかりしたトレースの上を歩き、1泊目の我々のテン場を通過して、無事に昼には林道に到着。
 元旦に仕事があって何としても年内に下りたい丹野さんに「じゃあ、これから今度は飛越新道から入って、黒部五郎目指そうか!」などと冗談を言って、冷やかす。ひとえに、無事に下りられたからこそ言える冗談で、みんなで大笑いする。
車まで戻ると、バスが何時間も後だという佐野さん達も一緒に我々の車に乗ってもらい、集落を下りる。平湯のバスターミナルの温泉でこの5日間の垢を落とし、体を温めて、飛騨牛で下山を祝い、帰京の途についた。
私は、帰京したときの首都圏の雰囲気と山とのギャップが好きだ。それにしても、今回はビバークがあったので、その度合いは大きかったが。
 なにより全員無事に帰られたことが嬉しい。
(佐藤 直子 記)