山菜採りの楽しみ 番外編

佐藤(勇)

 先月号で、「地元の人は、ヨソモノが山菜を採りに来ることを快く思っていません。」との内容の文章を書きました。論理の飛躍がありますので、補足します。

 山菜が自生している場所は人目につかない山の中です。そこは私有地もありますが、入会地とか共有地又は国有林の共用地などと呼ばれている場所が一般的です。
 どこに、どんな山菜がいつ頃どのくらい自生しているかを地元の人は承知し、恒常的な収穫を期待して毎年適度な収穫をしています。もちろん生活のためにそこで収穫する権利もあります。また、収穫者が特定できるため、相互の交渉や牽制が可能です。つまり、入山者全てが再生可能な限度内で収穫するという暗黙のマナーを実践しています。

 収穫量 < 再生量

 ここにヨソモノ、特に山菜採りのみを目的とした連中が入り込んでくると、結果は予想できます。地元の人が(まだ早い、伸びすぎた、身が細い、来年用に、として)あんばいして摘まなかった山菜でも、手当たり次第に刈り取ることが予想できます。乱獲のため、来年以降の収穫すべき山菜の質が落ちたり、枯渇します。

 収穫量 > 再生量

 ハーディンの「コモンズの悲劇」に似た悲劇が起こります。山を牧草地に、地元民を牛飼いに、収穫すべき山菜を牛とし、追加の牛1頭をヨソモノが持ち込む牛に置き換えた場合です。自分の欲望が、結果として他者の収穫を減じることを地元の人は本能的に知っています。

 どこにあるどの山菜は、どれだけ収穫したら来年の収穫に負荷をかけるかを承知しています。収穫場所、収穫方法に非常な注意を払い、それこそ、足の踏み場所にも神経を使っています。

 ヨソモノはどうでしょうか。目の前の刹那的な私益のみに終始する人がほとんど、と地元の人は思っています。事実、群生地の山菜が根こそぎ持って行かれ、はらわたが煮えくりかえる例などいくらでもあります。再生産される限度を超えることなどにお構いなく、ヨソモノがコモンズの均衡(山菜採りのルール)を乱している。
 地元の人は、ヨソモノの行為が自分たちの生活にマイナスの影響を及ぼしていることを(俺たちの山を勝手に荒らしやがって!と)不愉快に思っているのです。

 わずかしか採っていないことなどは理由になりませんし、わずかしか採っていないこと示したところで、納得しません。入山者全員に疑いの目を向けます。
 私益(エゴ)行為は山菜採りに限りません。下草刈りの時に、そこだけ気を付けて刈らなかった場所に、毎年必ず一輪だけ咲くヤマユリが今年は根っこから掘られて、穴だけ残っていたとか、イワナの生息地やカタクリの自生地がたちまち消滅したなどです。

 再生可能な領域を超えて、明らかにヨソモノのエゴ行為が行われています。全国各地を荒らし回る山菜採りのプロがいるらしい話しもあります。一面に刈り取られた山菜のあった場所をみると、そんなウワサも信じたくなります。

 釣り人の(ゴミを棄てる)マナーの悪さを沢屋はよく口にします。山菜採りの何気ない行動がマナー違反になることがあります。良識ある行動で山菜採りのマナーを守りたいものです。 

 オーバーユースによる山岳の環境汚染問題なども、これとよく似た現象です。入山者の無意識のエゴとでも言うのでしょうか。

 「コモンズの悲劇」や、コモンズの悲劇に似た悲劇を起こさないための一つの方法がマナーの徹底と規則の導入です。マナーと規則ののどちらが入山者に快適かは議論の余地はありません。しかし、マナーには強い自己規制が伴います。
 マナーに自己規制が伴わなくなると安易に規則の制定に変わってしまいます。どこかの山のように。

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「コモンズの悲劇」とは
 たとえば、5人がそれぞれ牛1頭を牧草地に放牧していれば、毎年全ての牛は肥え、利益も生まれ、牧草も安定的に再生産される。しかし、自分の利益をもくろみ、一人が牛2頭を放牧すると、2頭分の利益は出るだろうが、全ての牛の肥え方と、牧草の再生産はおちる。他の4人も同じ考えなら、結果はあきらかである。
 つまり、ある資源が誰でもが利用可能であるとき、その中の誰かが自分より多くその資源を利用すればそれだけ自分の利用分が減少するため、自分の利用分を最大化しようとする。それを望む者が同じように考えた場合、皆同じ行動をとり、資源は過剰消費され、枯渇してしまうという理論です。
「山毛欅」2003年9月号