山との永〜ぃ おつきあい
佐藤(勇)

 いったい、どんな目的で山に登るのだろうか。スポーツとしてなのか、精神修養の一つの手段なのか、心身回復のレクリエーションのためなのだろうか。
 登山をスポーツとして捉えれば、合意された競技条件で力量の優劣を競いあう、特定のフィールドとしての無機的な山になる。高校総体の山岳競技や未知のルート開拓も含まれよう。精神修養の場と考えれば、山そのものを精神修養のよりどころとし、神や未知の力の存在を置き、達成目標を決め修練する。修験者みたいな人か。レクリエーションと考えれば、個人個人の個性ある価値観に従い、山から癒しの果実を得ようとする。山渓JOYや、多くの登山者はこの範疇か。
 さて、私はといえば、スポーツ登山でもなく、精神修養でも、またレクリエーション登山のためとも言い切れない。このような山に対する中途半端な考えは、どうも子供の頃に「刷り込まれた」環境によるものではないのだろうかと考えている。ぶなのみなさんと山に対する想いが多少ブレているようだ。そこで、この巻頭言をお借りして、昭和20-30年代の私の子供の頃の情景と最近の出来事とを交えてお話しし、朽ちかけた小さな集落を通りすぎるとき、山奥にはそんなこともあったのか、と思い出していただければありがたい。ただし、なんせ50年近い昔のため記憶も曖昧で、話の内容はあまり信用しないことです。

◎里山と山
 民家に近い人の手が加わった土地と、その外域の獣などのナワバリまでの境界で示され、唱歌「菜の花畑に入り日薄れ 見渡す山の端 霞深し」の、山の端までが里山だろう。遠くに山の端があれば奥行きの深い里山で風情もあるが、私の田舎は家の裏手がすぐ山で、里山はほとんどなし。わずかな空間にある棚田も、減反と高齢者増加と人口減で作付けが減り、雑草に蚕食され続けている。田圃は、3年間放置するとその形をとどめないただの荒れ地になる。

◎過疎
 舗装道路が整備されると、まず若者が川下の町に現金収入を得るために勤めに出る。数年すると町に家を建て、親を呼ぶ。子供が親を呼び寄せると、挙家離村である。心情として、親も子も自分の生まれた所からさほど遠くないところに生活する。実のところ、先祖が命がけで開墾した田畑を守りきれず、自分の代で遺棄することや、自分の生まれ育ったところの未練をあっさりと断ち切れるはずがない。決して魅力が無いわけではないが、生活の向上と安全の追求は生きる本能だ。集落に残っても、次代に託すべき子供の声がしないほど張り合いのないことはなく、老人の生きる気力は失せる。過疎対策と生活向上のための立派な道路は、町への人口流失の一方通行の道になる。
 遺棄された民家は棚田と同じく、数年の間に屋根は積雪に押しつぶされ、梁は折れ、葛の葉に覆われる。山に入るとそんな無惨な集落跡が時折見られ、心が沈む。

◎人びとと山のつながり
 全国どこの山奥でも、これまで人跡未踏だった地はないだろう。特に、明治中程から太平洋戦争が終わるまでの60−70年間は、それまでの木炭生産、山菜採りに加えて、山師の鉱物探査と採掘、水力発電取水工事、送電線敷設、伐採・植林などのため、至る所に作業道がつけられた。その面影はいまでもかすかに伺える。草木の葉が落ち初雪が降り積もった翌日、山の斜面にわずかな残雪が斜めの筋になって残っているところが、かつての道だ。マチガ沢手前あたりから望めば、蓬峠から清水峠にかけての斜面にそれらしい跡が見られる。葉脈のように、全ての山に道があった。かすかに残る古い踏み後に出会うと、誰がどんな思いで通っていたのかなと、気にかかるときがある。

○生活と収穫
 昭和20年代、学校の巡回映画で山梨県道志村の子供たちを主題とした「おらぁ三太だ」を見た。その子供たちと同じように山や谷川で遊びまくっていた。また、農作業は親に殴られなくてもやった。田畑の作物とは別に、山菜、キノコの採集は貯蔵食糧としても貴重で、山菜は初春から初夏にかけてが収穫の季節。ゼンマイやウドは滑りやすい泥壁や雪崩末端の腐葉土が堆積した谷間に多い。初冬のナメコの収穫はあまり嬉しくない仕事の一つで、朽ち木の初雪を手で払い、凍えながら収穫する。ヤマブドウやアケビなどは、よその子供に知られない秘密の場所があり、空きっ腹の足しとしていた。
 冬の晴れ間に親父と出かける一日がかりの兎捕りは、勢子の役目。カンジキを着けて急斜面を登り、足跡の通過時刻と方角から兎のいそうな場所を定め、親父が先回りして尾根に登り鉄砲を構える。勢子が谷から大急ぎで兎を追い上げる。
 そんな理由で、山に入ると子供の頃の記憶がよみがえり、キョロキョロと獲物を探す目つきが直らない。

○山の神
 多くの山は神の宿る場所として信仰の対象となっている。道祖神、庚申塚、三十三夜塔、馬頭観音、水神様などの石造りの塚は、路傍や大岩の頂か岩陰に鎮座していて、村や農耕の守り神として祀られているが、山岳信仰の一部とも関連があるのではないのだろうか。
 集落ごとに毎年行なわれている神事の狂拍子(クルンビョウシ)、獅子舞、歳の神などは、一部が県の無形民俗文化財として指定され、わずかに現在まで続いているにすぎないが、山と人と神とが一体となっていることを実感する。島崎君が舞った境の白髭神社の獅子舞も、山とそこに生活する人びととを結びつけている行事だと思う。

◎災害
 積雪が原因の災害が多発する。融雪洪水による道路や畦の決壊、雪崩による道路遮断、保水力オーバーによる地滑りなどである。集落や田圃はこれらの災害の及ばない場所を選んではいるが、なにせ耕地面積がほとんどなく、きわどい場所に人家が建っている。このほか、屋根雪下ろしでの転落、耕うん機ごとの横転事故などは、非力な女性や高齢者を襲い増加している。これらの災害や事故が、更に過疎化を加速する。
 数十年に一度、大きな自然災害が発生する。日本三大崩落のひとつと言われる明治44年8月の稗田山大崩落は、20名以上の犠牲者を出した。また、犠牲者は出なかったが、平成7年7月の集中豪雨は村に大きな爪痕を残し、完全復旧までに数年を要した。国の力とは大きなもので、ゴルジュの続く姫川の両岸を、40km下流の河口までほとんど切れ目なくコンクリートで覆ってしまった。河原遊びや滝つぼ遊びもできなくなった。
 鳥の鳴き声や昆虫の動き、雪形、清水の水量など、天候や自然のわずかな変化に敏感だった。昔からの言い伝えは案外当たるが、テレビの天気予報の確率は数段高く、観天望気の重要性は省りみられなくなった。

◎掌の上で
 結局のところ、山に入っても子供の頃と同じく、相変わらず山の中で遊び、山とのおつきあいをしているという意識が強い。森の奥や谷間に入ると、子供の頃に戻ったような気持ちになる。そこは、山の神の支配する領域であり、正面から山に挑む気持ちにはなれない。
 山の幸を少々いただきながら、山の神のたなごころの上で、ご機嫌を損なわさせないように、これからも遊ぼうと思っている。

「山毛欅」2003年5月号巻頭言